誹謗中傷ブロガー広尾晃の痛い発言を検証する

アクセス数稼ぎのためにプロ野球選手を誹謗中傷し、毎度のようにコメント欄で読者から論破されて逆ギレおこす広尾晃さんのウォッチしていきます。

『はじめてのマスコミ論』(同友館、2006)

はじめてのマスコミ論

はじめてのマスコミ論

ゼミで使用するテキストなのだけれど、今年は一回も使用せずだった。一体何のために買わせたんだ!って言いたくなる。ただし、試験に関してはこのテキストから出題されるらしい。というか、そうでもしてくれないと金の無駄になるじゃないか。だいたい、このテキストは中身もあまり役に立たない無益なものだ。
一応、マスコミ論というタイトルなわけであるから学問らしく、いろんな理論が紹介されてはいるのだけれど、実験とかで検証されたわけでもなく、単にマスコミ研究者たちがマスコミの影響と思われる部分について、こじ付け的な説明をしているだけ。特に酷いのが疑似環境のところで、暴力シーンなどの映像に関して「マス・メディアと通して、代理経験したさまざまな世界が、そのまま子どもの環境象となる」と述べている部分なのだけれど、要は「子どもたちはバーチャルと現実の区別がつかなくなる!」という俗説的な理論だ。しかし、現代のテレビゲームやAVにおけるエログロナンセンスな部分は昔に比べて遥かにリアルになっているにも関わらず、少年非行は昔に比べて減少している。
また、犯罪報道をめぐる記述には異論がある。このエントリーでは特に可笑しいと思う「非行少年を実名報道すべきか」という部分について批判を加えよう。
少年による凶悪な犯罪が報道されるたびに、厳罰化とともに提起されるのが非行少年に実名を公開すべきか否かという問題だ。しかし、非行少年を大人と同じ扱いにせよとする論者は一時の憎悪に流されて、出所後も含めた長期的な視点が欠如している。以下、非行少年の報道問題に関して「実名報道」を求める意見を批判し、少年法を含めた非行少年の取り扱い方の問題にどういう視点が必要かを明らかにしたい。
非行少年の実名を公開すべきではない理由は、出所後の少年の社会復帰を困難にしてしまうからだ。現状の少年法では少年と大人と同じように罰することはできず、仮に殺人を犯した少年であっても社会復帰が可能であり、それゆえ、実名報道に関して出所後の少年の人生も含めて議論されなければならない。実名報道の問題は少年の就職を含めた社会復帰が困難になるために、少年と社会とのつながりの欠如を生み出し、反社会的な性向をエスカレートされてしまう危険性がある点だ。社会からはみ出た少年が再び罪を犯すことこそ避けなければならない事態だ。
そもそも非行少年の実名報道を行う週刊誌の記者の動機は何だろうか。非行少年を晒し者にして制裁を加えるというものではないのか。しかし、記者(マス・メディア)の役割は知る権利の代弁に過ぎず、憎い者に罰を加えることではない。犯罪者を罰するのは刑法であり、非行少年が憎いから自分が代表して制裁を加えてやろうとする考え方は大変おこがましい。結局、実名報道をする記者たちは一時の報復感情に流されているだけに過ぎないのである。もちろん、非行少年の厳罰化を求める論者たちも同様だ。
さらに近年の厳罰化と実名報道を求める主張の理由づけになっている「少年犯罪の凶悪化」自体が根拠に乏しいものであり、グローバル化も厳罰化と実名報道を認める積極的な理由にはならない。我が国のマス・メディアは凶悪犯罪が起きると、すぐに凶悪犯罪を全体に一般化する傾向があるが、そのような凶悪な事件の数が少年犯罪全体の中でどれくらいの比率なのか検証されるべきであろう。また、日本は先進国の中でも治安の良い国であるのだから、グルーバルスタンダードに合わせる必要はない。
とはいえ凶悪犯罪は被害者だけではなく、遺族にとっても不幸な出来事である。罪の意識の低い少年に苛立ち、実名を公開して晒し者にする制裁を与えたくなるのが自然かもしれない。だが、少年はいずれ大人になり、社会に出てくるのである。一時の復讐感情で実名報道をしてしまったために少年が社会から拒絶され、再び不幸な出来事が起きるという事態は避けたい。そうであるなら、一時の復讐感情で罰するという愚かな考えはやめるべきである。少年は嫌でも社会に復帰するのだから出所後の少年の社会復帰、再犯防止の観点から議論されるべきである。