誹謗中傷ブロガー広尾晃の痛い発言を検証する

アクセス数稼ぎのためにプロ野球選手を誹謗中傷し、毎度のようにコメント欄で読者から論破されて逆ギレおこす広尾晃さんのウォッチしていきます。

サヨクの戯言

前回のエントリーで取り上げた人が別エントリー*1鄭大均の著書を批判している。といっても見ればわかるように、批判はしているものの、積極的な反証にはなってない。このエントリーでは[「在日・強制連行の神話を検証する]に対し、再批判を試みたい。
在日の被害者アイデンティティについて
リンク先のサヨは鄭が今日の在日は被害者アイデンティティのせいで、自己検討の機会を逃しているという主張に対し、こういう。

私事になるが、自分はミクシィ在日コリアンと日本人が交流するコミュに入って一年以上になる。そこで様々な議論や意見交換をしたり、また実際に会って話を聞いたりもしたが、少なくとも自分の経験では、鄭大均氏が言うような「被害者アイデンティティ」を売り物にするような在日コリアンとは出会ったことがない。むしろ民族意識・問題意識が高い人(すなわち「〜記録」なども読んでいると思われる人)ほど、被害者性―すなわち自らを「弱者・かわいそうな人」と捉えたり、そう見なされたりすること―を拒否し、主体性を大切にしているように思える。

実際に在日と会うと、一般の在日が被害者アイデンティティを売りにしてないことはわかる。鄭の主張が受容されるのには、一般の日本人が在日に無知であることが考えられる。結果、メディアに登場する「被害者アイデンティティを売り物にするような在日コリアン」を見て、それが在日の一般的な態度だと思ってしまうのだろう。
で、私がおかしいと思うのは次の記述だ。

もちろん、自分が出会った在日コリアンはほんの一部に過ぎないし、自分が知らないところに鄭大均氏が言うような「被害者アイデンティティ」にとらわれている、あるいは売り物にしている在日コリアンがいるかもしれない*2。しかし、仮にそうした在日がいるとして、その原因が朴慶植氏の「〜記録」にあるという鄭大均氏の論は粗雑に過ぎる。

この人は前回の私のエントリーで書いたようなことをここでもしている。鄭は原因を単純に「朝鮮人強制連行の記録」に求めていない。このサヨは他人の主張を曲解した上で「粗雑に過ぎる」と言っているわけであり、「お前の読解こそが粗雑だ!」と返しておこうと思う。
ところで80年代から日本では多文化共生主義が語られるようになったようだ(鄭大均在日韓国人の終焉』文春新書)。恐らく、バカン・サンジュンあたりの言説は当時の多文化共生主義言説の流れで登場したものだろう。そしてこの時期から進歩的な在日知識人が多文化共生主義を求める声とともにメディアに登場しはじめたのだと思う。
「日本人側から見れば、むしろ80〜90年代頃は「在日=かわいそうな被害者」というステレオタイプな見方が徐々に薄れていった時期であるように思える」のなら、ネット上で在日バッシングは起きないだろう。ネット上での新たな在日差別論は、私見では80年代からの進歩的な在日知識人による被害者アイデンティティを売り物にした態度への反動だ。「差別問題」という観点から見ると、進歩的な在日知識人の態度は石原都知事世代が持っている在日への反感とは別の新たな反感を生む要因であり、差別の再生産に繋がるが故に害である。
さて、リンク先のサヨは鄭の引用文を指して、「差別を正当化し、責任を被差別者の側に転嫁している」と的外れなことをいっている。そう批判されている部分は

朝鮮人強制連行の記録』の著者の被害者性を売り物にする態度が、本来は、在日にとっても恥ずべきことであったということはすでに記した*1。この恥ずべきことがやがてお手本となっていく過程で、在日たちが失ったのは、朝鮮人として生まれたという理由で、差別され疎外されるという理不尽さを克服するための自助努力とでもいうべきものではなかっただろうか。無論、こうした自助努力が不要になったということ自体は喜ぶべきことである。ある特定の人種や民族を出自として生まれたというだけで、差別や疎外の対象になるという状況は、なによりも、当事者を傷つけ、不幸に仕立てあげやすい。マイノリティの人生にはあやうさがつきものである。

だが一方で、かつての日本には、不利な立場で生まれてきたがゆえに、他人よりも努力して自分を鍛えるとか、理不尽さに向き合う過程で、ある種の奥行きを備えた人間が生まれるという「逆境の効用」とでもいうべき状況もあった。それに比べると、今日の日本に見てとれるのは、コリアンであることを自己表示するや、ある種の権威や権力を得るという状況で、これでは自分をスポイルすることになりはしないか。

個人的にいえば、私は八○年代から九○年代の大部分を日本の外で暮らし、したがって在日論の転換といっても、実感しにくいところがあるのだが、九○年代の半ばに日本での生活を再開し、メディアを通して、新しい在日論に接し、印象的だったのは、かつては差別され疎外するゆえ自分に向けられていた疑念が、今の時代にはもっぱら他人に向けられているという傾向であり、『朝鮮人強制連行』に、今つけ加えようとしている批判もこのことと関係がある。

より良い生活をするために、私たちは、祖国や日本との関係をどのように変えていったらいいのか。これがおそらくは多くの在日コリアンが共有する関心事であると思われるのだが、被害者アイデンティティに身を任せた人間は、前向きの人生を選択しない。つまり彼らが関心を寄せるのは、日本人とコリアンのより良い未来の模索などというよりは、「不幸の科学」(レイモン・クノー)の歴史であり、その在日版の元祖的な位置にあるのが、『朝鮮人強制連行の記録』を著した朴慶植なのである。(「〜神話」p157〜159)

というところだが、一体これのどこが「差別を正当化し、責任を被差別者の側に転嫁している」のかわからない。

ある特定の人種や民族を出自として生まれたというだけで、差別や疎外の対象になるという状況は、なによりも、当事者を傷つけ、不幸に仕立てあげやすい。マイノリティの人生にはあやうさがつきものである。

この部分を提示すれば、いかにリンク先のサヨが的外れなことを言っているかがわかるのではないか。もしかすると、このサヨは「差別を正当化する人達に利用される恐れがある」と言いたいのかも知れない。だとしたらこのサヨはダブルスタンダードな姿勢をするべきではない。ダブルスタンダードな姿勢とは

過去の歴史の真実を明らかにすることは、心地良いことばかりではありません。私たちが日本の朝鮮植民地支配の歴史を学ぶとき、近代化に失敗し植民地に転落した負の民族史に立ち向かわなければなりません。植民地からの解放を自力で勝ち取ることができなくて、統一した独立国家の再建ができなかった南北朝鮮の分裂という現実に直面しなければなりません。近現代史に登場する朝鮮人は、独立運動に命を捧げた英雄ばかりでなく、日本の植民地支配に協力した醜い親日派もいます。わが民族史における強さ素晴らしさを取り上げてそれを継承するとともに、弱さ・醜さの原因を究明してそれを克服することも、歴史研究の課題なのです。

を肯定的に引用してるところ。これだって「支配されたことの責任を朝鮮人側に求めている」と非難すべきなんじゃないの?というか、金英達鄭大均は「朝鮮人は自己検討をすべき」という部分において、同じだと思うのだけれど。