誹謗中傷ブロガー広尾晃の痛い発言を検証する

アクセス数稼ぎのためにプロ野球選手を誹謗中傷し、毎度のようにコメント欄で読者から論破されて逆ギレおこす広尾晃さんのウォッチしていきます。

朝日はやっぱり売国奴

西村幸祐のblog経由で朝日新聞社の若宮が書いたトンデモコラムを発見した。コラムの内容は、韓国に侵略された竹島の問題に言及したもので、それによると前回のコラムで竹島問題に関して書いたことが多くの批判を浴びたという。前回のコラムを私は読んでいなかったけれど、今日紹介するキチガイコラムや、それに対する西村の批判によると、なんと若宮は前回、竹島を韓国に譲ってはどうかと書いたというのだ。ああ、やっぱり朝日新聞だな、と思う。
若宮が12月25日付けに書いたコラムは、前回書いた「竹島を韓国に譲れ」ということに対して多くの批判があったことへの再批判(?)だ。「言論の覚悟 ナショナリズムの道具ではない」と題したそのコラムを見て、さすがに朝日新聞でも売国発言が過ぎると思った。とにかく驚くべき内容なのだ。
若宮は前回のアホな主張が多くの批判を「言論の自由」への侵害だという。2005年の小泉による靖国神社参拝の際に、加藤紘一という反日日本人の家が放火された事件を覚えているだろうか。放火したのは名前はわからないけれど右翼団体の男で、加藤が靖国反対を唱えていたことへの行為だったと言われている。あれ以来、反日ブサヨプロ市民どもが「言論の自由表現の自由はどこへ」と嘆いている。朝日新聞の投稿欄にも「今の日本社会に言論の自由がない」といった論旨の投稿が馬鹿みたいに載せられている。
こうした最近のブサヨプロ市民どもの間で流行っている「言論の自由」という言葉を受けて、売国奴「若宮」は自分がアホなことを書いたから非難されているのに、その非難を「言論の自由への侵害」と言い放っているのだ。あんなアホなことを書けば批判されて当然で、それを「言論の自由」という言葉を使って「日本とはこんな言論も許される多様性の社会だと、韓国の人々に示したかったのだ」と誤魔化すけれど、そんな誤魔化しが通ると思ったら大間違いだ。そんなに批判されたくないのなら発言するな。誰であっても自分が発言した瞬間に、その発言は批判の対称になる運命を持つ。特にジャーナリズムであれば、自分の主張が批判されることを覚悟しなければならない。また、読者にもそれを批判する権利がある。
にも関わらず、その批判を「この国にも言論の「不自由」は漂っている」と書くのはいかがなものか。

 実は、私の夢想には陰の意図もあった。日本とはこんな言論も許される多様性の社会だと、韓国の人々に示したかったのだ。実際、記事には国内から多くの共感や激励も寄せられ、決して非難一色ではなかった。

決して非難一色ではなかったのなら、それは日本には多様な意見が存在するということであり、日本には言論の自由があるということだろう。
さらに、若宮の屁理屈は続く。

 日本でも、外国の主張に耳を傾けるだけで「どこの国の新聞か」と言われることがある。冗談ではない。いくら日本の幸せを祈ろうと、新聞が身びいきばかりになり、狭い視野で国益を考えたらどうなるか。それは、かつて競うように軍国日本への愛国心をあおった新聞の、重い教訓ではないか。

 満州へ中国へと領土的野心を広げていく日本を戒め、「一切を棄つるの覚悟」を求め続けた石橋湛山の主張(東洋経済新報の社説)は、あの時代、「どこの国の新聞か」といわれた。だが、どちらが正しかったか。

と、前回の自分のアホ発言と石橋湛山の社説と同一視するけれど、それとこれとは状況が違う。若宮のアホ発言はナショナリズムや右翼・左翼関係なしに批判されて当然の内容だった。石橋の社説は純粋に日本の国益を考えての発言だったに違いない。で、若宮の売国発言のどこが「国益を考えた」ものなのだろうか。韓国に侵略されて、それを譲ってあげろとは馬鹿げている。一体どこが「国益を考えた」発言なのか説明して欲しいものだ。
そして極めつけは、このコメントだ。

 もとより波紋は覚悟の夢想だから批判はあって当然だが、「砂の一粒まで絶対に譲れないのが領土主権というもの」などと言われると疑問がわく。では100年ほど前、力ずくで日本に併合された韓国の主権はどうなのか。小さな無人島と違い、一つの国がのみ込まれた主権の問題はどうなのか。

なんで100年前の韓国併合の話が出るのかわからない。「韓国は日本に侵略されたから、お返しに日本の領土を侵略してもよい」ということだろうか。文脈からして、そうとしか読めない。まったく、とんでもない話だ。このような人物を「売国」奴と呼ぶのは当然であり、若宮にぴったりの称号だ。